2008年12月28日日曜日

アステリクスとオべリクス

 北のオランダからフランスへと南下してくると、パリ首都圏内に入る少し前、高速道路A1に沿って、道路沿いを注意して見ていると「パルク・アステリクス(アステリクス公園)」という看板があるのに気づきます。これは、子どもたちのための娯楽施設、テーマパークの表示です。
 時速130キロの自動車の車窓から左手を見ていると、こんもりと茂った森の横から、高い櫓の上で、目を凝らして外の様子をうかがっている黄色い髪の毛の小柄な男の人形が据えられているのが見えます。これが、ヨーロッパでは大人気のアステリクスなのです。
 このテーマパークは、実は、アステリクスとオべリクスという二人のキャラクターが中心になって活躍するフランスのコミック誌が元になっています。1960年代に、ゴッシニ(Goscinny)という人が文章を作り、ウデルゾ(Uderzo)という人が漫画を描いて大人気となり、何冊も連続して出されたシリーズものです。
 舞台は紀元前50年のフランス。ガリア人らが、カイザー率いるローマ軍に征服されてしまったといわれる時代ですが、そこに、小さい村ながら、ローマ軍の攻撃から、村が一丸となって防衛し続けた人たちがいた、それが、アステリクスとオべリクスの村だった、という想定です。
 このコミック誌に出てくるキャラクターは、明らかにガリア戦記の記述をもとにしていて、中学や高校でラテン語を学び、ガリア戦記を読んで育ったヨーロッパのエリートたちには、このパロディの利いたコミックが面白くて仕方がないのです。

 さて、私たちがよくいく南西フランスの村の近くには、ローマ軍によってガリア人たちが最後に征服され撲滅されたという小高い丘陵の地があります。実際、当時のローマの勢いは大変大きく、シーザーの威力と軍隊の組織力は比類のないものだったようです。実際、ガリア人がその時に征服されてしまったのであれば、今のフランス人たちの祖先には、いったい、どれほどガリア人の血が流れているのでしょうか。ローマ人の血もたくさん流れていることでしょう。

 いずれにしても、この「アステリクスとオべリクス」のコミックの中では、シーザーもローマ軍も、英雄というよりも、アステリクスやオべリクスのような、土着の村人に挙げ足を取られてばかりいる、ドジで間抜けな支配者と兵士たちとして描かれているのです。

 小柄で身軽なアステリクスは村の外のローマ軍の動きをいつもすぐに察知して、知恵を聞かせる男。(ですから、例のパリの北部にあるテーマパークで、櫓に昇って外を見ているアステリクスというのは、実は、自分の村に襲い掛かってくるローマ軍の動きを素早く察知しようと目を凝らしているのです。)お相撲さんのように肥って大きなオべリクスは、イノシシの肉の丸焼きが大好きな田舎者でのんびり屋、機転は効かないけれど何か村に危険が起こると、アステリクスに協力して、ポパイのように大きな筋力を発揮します。いよいよのことがあると、パノラミクスという村の魔法使いが、特別のレシピーで大釜に炊いた魔法の薬を二人に与え、神業の力を得たアステリクスとオべリクスの指導で、村人たちはローマの兵士たちをコテンパンにやっつけてしまうのです。

 アステリクスとオべリクスには、イデフィックス(イデ=アイデア、フィックス=固まった、で「頑固な」という意味??)という白い小型犬がついて回り、時にはメッセンジャーとしても活躍します。

 このコミックシリーズは、フランスではもちろんのこと、ヨーロッパ中で大人気となり、ヨーロッパ域内の国でほとんど翻訳されています。また、アメリカ合衆国はもとより、南アフリカ、オーストラリア、カナダ、ロシア、トルコ、はたまた、インドや香港でも翻訳されて出版されています。今でも、何冊も増刷されて、子どもたちの愛読書です。

  フランスという国は、オランダに比べてみても、また、ヨーロッパの域内で見ても、どちらかというと中央集権的な性格が濃厚な国です。一見、日本のように、首都を中心としてすべてが中央集権的にトップダウンで組織されているように見える国でもあります。
 しかし、他方で同時に、フランス人の心には、フランス革命をおこした「市民の国」という自負も大変大きいのです。権力には勇気を持って抵抗する国なのだと。
 たぶん、そういうフランス人の国民感情が、こういうコミックの人気を支えているのではないでしょうか。

 そして、1960年代頃から、ヨーロッパでこのコミック誌が広く人気を集めた理由もまた、当時、特に西ヨーロッパの庶民の意識が人権の保護ということに向かって言っていたことと無関係ではないのかもしれません。

 日本でも、このシリーズは、1,2冊翻訳され刊行されたらしい兆しがあります。しかし、どうもうまく売れなかったようです。ヨーロッパが遠かったのでしょうか。文化が違いすぎていたのでしょうか。

 権力への抵抗は、世の東西を問わず、コミックの代表的なテーマでしょう。このアステリクスとオべリクスの、ウィットの利いた漫画が、日本であまり売れなかったということについて、その理由も気になりますが、何より、残念なこと、と思います。

こんなに違うオランダ(人)とフランス(人)(2)

 ファッションの最先端を行く店がずらりと並ぶシャンゼリゼ、ライトアップされるエッフェル塔、凱旋門周辺の高級住宅街などに象徴される近代的で先進的な都市パリは、かといって、必ずしもフランスという国の特徴を代表しているとは限りません。
 フランスのテレビを見ていると、時折、「あなたはパリジャン、それとも、プロヴァンスの人?」「パリとプロヴァンス、どっちが好き?」というような聞き方が普通にされるほど、フランスと言う国は、都市文化が一極に集中した首都パリと、それ以外の大半の人たちが暮らしているプロヴァンス(田舎)との差が極端に大きな国であると思います。

 そもそも、フランスは昔からヨーロッパ随一の農業国。ワインばかりではなく、穀物生産、生鮮野菜の生産が盛んな国です。パリを取り巻いている循環道路を抜けてその外に出ると、少しなだらかな起伏がある平坦な農地が広がり、早春には、トラクターが黒い肥沃な土壌の農地を耕し、初夏には一面の菜の花畑が広がり、盛夏には、草を刈り取って円筒型に丸めたものが点々と照りつける太陽の下に日干しにされています。国土の広いフランスには、農地と森林がそこそこに広がり、バリから車でものの30分も行けば、広い農地の向こうに、教会の尖塔とその周りに集まった村の集落のシルエットを遠望できます。

 石の文化のヨーロッパらしく、どこの農村の家も、その土地から切り出された石を積み上げて作った民家がほとんどで、赤土の土地の農村の家は赤い壁、カルストの広がる地域の家は白っぽいベージュの壁、ごつごつとした岩肌の土地の家は黒くて重い石のスレートで屋根が葺かれている、という風で、土地との密接なつながりが興味深く、また、家という建造物がその背景の自然の中に溶け込む美しさを見事に示しています。

 彼らの宗教は主としてカトリックのキリスト教ですが、現在のフランス人庶民にとって、宗教は決して観念的なものではなく、ちょうど、日本の仏教のように、生活に密着した、日常的な慣習の一部になっているという感じがします。高速道路を少し離れて、県道沿いの村などに行くと、道路の分かれ道ごとに十字架が立っていて、しばしば、その十字架にイエスの像がかかっています。村の教会は、12世紀ごろにたった古いものもありますが、一概に小さく、教会前の広場にはマリア像が立っています。
 オランダのプロテスタントの教会ではほとんどそういうことはありませんが、フランスのカトリック教会に行くと、日本の村の小さな寺に来たような錯覚にとらわれることがあります。分かれ道に立つ十字架も、日本の山道にあるお地蔵さんを思い出させます。

 フランスの村には、必ず村人たちの共同墓地があります。仕事で都会に出て行った人たちも、死んでしまえば、故郷の家族の墓地に埋葬され(今でもなくなった人のからだは火葬するのではなくそのまま埋葬するのが習慣です)、毎年、11月の初めのハロウィーンのころは、「すべての聖人が集まる日」と言って、フランス人にとっては、先祖のお墓参りの日なのです。その日には、都会にいる人たちも、故郷の実家に帰り、墓に参って花を供えます。

 全国いたるところが、網の目のような道路に覆われ、ほとんどの地方が都市化してしまったオランダでは、こういう光景はあまり見られません(オランダではカトリック以外の人は現在ほとんど火葬ですし、個人主義が進んでいるためか、墓も作らず納骨もせず、灰を火葬場の花畑に撒くだけ、という例もかなりたくさんあります)。たぶん、東部とライン川以南のカトリックの地域だけでしょう。
 もともと、アムステルダムを中心に商業を生業としていた都市市民がリーダーシップを作って作った国ですし、国の規模が小さいので、都市と田舎の格差というのも、オランダでは、フランスほどに大きくありません。

 このことは、学校教育についても両国の大きな違いを生んでいます。

 フランスは、パリはリヨン、ボルドーなどの大きな都市は例外として、全国のほとんどの地方では、先に言った村の教会の横に「メリー(Mairie)」とか「オテル・デ・ヴィル(hotel de ville)」と呼ばれる村役場があり、たいてい、これに隣接して、村立の小学校(エコール)があります。過疎化が進んだ農村では、地域の小学校が統廃合され、空き家になった学校も少なくありませんが、いずれにしても、それは、村の中で、村役場と並ぶ立派な建物です。今でも立っているこれらの小学校の校舎には、よく、「ギャルソン(男子)」と「フィーユ(女子)」と入り口の鴨居の上に刻まれていることがあり、「なるほどその昔は、フランスも、「男女席を同じうせず、だったのだな。いったいいつから男女共学になったのだろう」と思わせます。

 昔から、西ヨーロッパの国々の間でも、フランスの学校は、「規律が厳しい」ことで有名でした。学校というところは、しつけを学ぶところ、そして、真面目に読み書き算を学ぶところだったのです。村に一つずつですから、オランダのような「教育の自由」、つまり、親が自分の信念に従ってそれにあった学校を選ぶとか、親が集まってみんなで一緒に学校を建てる、というようなことは、ほとんどできなかった国です。ですから、教育の内容も国が一律に定め、中央集権的な管理が置かれていたことで有名です。

 明治維新以後の日本は、幸か不幸か、このフランスの小学校制度を模倣したといわれています。日本も都鄙間格差が大きな国ですから、ある意味では正しい選択であったのかもしれません。

 そういうわけで、こと、学校制度に関する限り、フランスでは、それぞれの学校の自由裁量権は、オランダに比べると著しく少なく制限されています。自由度の高いオランダでは、一定の質を維持するために、教育監督制度が発達しています。つまり、インスペクターという独立の機関が、国が定めた規則の中で、それぞれの学校や教員が、どれほど質の維持に意識的にかかわっているかを見定めていなくてはならないからです。そのため、オランダの教育制度には、ちょうど、モンテスキューが、民主主義の制度として、権力を3つに分散することを主張したように、教育行政の決定者である議会またその執行責任者である文部省と、実際に現場で教育に当たる教育者たちと受益者である子どもや親という二つの立場のほかに、第3の権力として、これを監督する教育監査局が大きな力を発揮しています。

 しかし、フランスの教育制度は、この第3の立場から監督する監査局の制度があまり発達していないことで知られています。中央集権的な制度なので、教育行政の執行者と監督の責任とが、密接に結びついているのです。

 フランスは、王や貴族の頽廃した権力を覆した、市民革命をおこした国として有名です。しかし、その一方で、こういう、中央集権制の強い国、という特徴も持っています。この二つの関係を理解するには、フランスとオランダでの、宗教が果たしてきた役割の違い、というものも大変密接にかかわっていると思います。

 それでも、フランスは、ヨーロッパを代表するほどに、人権意識の強い国でもあります。そこに垣間見えるパラドックスがとても興味深い国です。




2008年12月6日土曜日

こんなに違うオランダ(人)とフランス(人)1

 普段はオランダに住んでいますが、1年のうちに5回ほどフランスに行きます。行先は、過疎の田舎、パリからさらに500キロほど南下したドルドーニュという川の川沿いの村です。もともと、海外を放浪してきた私たち夫婦は、夫婦いずれかの国に永住しなければならない、という気はあまりなく、できれば、好きな場所にゆっくり居を構えて老後を、と思ってきたのです。そういう何年か先のことを見据えながら、たまたま見つけたフランスの過疎の村に、古い古い農家を買ったのは、今からもうかれこれ15年以上も前のことになります。休みごとに出かけて行って、いずれ落ち着く日までの準備を、という気分でもあります。そういうわけで、フランスの田舎に定期的に行く生活が続き、そうするうちに、ご近所の農家の人たちとも親しくなり、その地方の習慣にも慣れてきました。
 
 それにしても、オランダとフランス。国土の大きさもさることながら、人々の暮らし向きも、人間関係も、社会意識のようなものも、事あるごとに両国の間には違いを感じます。

 すぐに目につくのは、オランダは国土が狭いために、農業地帯といってもすぐそばに何らかの地方都市があり人口密度も圧倒的に高いのに対して、国土の広いフランス、しかも、農業大国のフランスは、都市と田舎の違いがとても目立っています。

 オランダの自宅から、そのフランスの村に出かけていくのに、高速道路をおよそ1000キロほど走るのですが、パリに近づいてくると、道路が渋滞していないかがまず気になります。果たして、パリ周辺をどううまく渋滞に合わずに短時間で通過できるかは、毎回チャレンジ課題なのです。込んで来そうになったらナビと地図を駆使して何とかわき道を、と試みますが、なかなかうまくいきません。

 というのも、フランスという国は、実に一局集中型の国で、首都パリは、日本の東京と同じように、国内のすべての道路がそこに向かって走ってくるように作られているからです。地図を広げてみればわかりますが、パリ周辺は、二重三重に環状道路が取り巻いており、それ以外は、すべてが、都心に向かっていく星状の道路づくりになっています。まったく、なぜ、こんな効率の悪いつくりにしているのだろう、と腹が立ってきます。パリ市内にある凱旋門も同じで、都内の道路がこれまた凱旋門に向かって走っています。だから、いったん、市街地に近づいたが最後、あちらもこちらも渋滞で身動きが取れない、というようなことが日常茶飯事なのです。

 オランダの道路は、こういうフランスの事情とはまるで違います。
 そもそも、オランダには、一局集中型の都市というのがありません。いくつかの都市が役割分担をしている、という感じです。
 もともと、歴史的には、アムステルダムが商業の中心地として昔から栄えたために、正式には「首都」とされていますが、この年には政庁は置かれていません。政府は、アムステルダムからだと鉄道で約一時間かかる、首都ではないハーグ市にあります。そのほか、大きな都市には、ハーグからさらに南西に下った所にあるロッテルダム市があります。こちらは、ヨーロッパ一の港湾都市で、ヨーロッパだけではなく、それ以外の世界の各地方から来る船舶を迎え、オランダだけではなく、背後にあるヨーロッパ諸国へのフォワーディング業で栄えている町です。
 そしてもう一つオランダの4大都市に加えられるのはユトレヒトです。オランダの国土のほぼ中央に位置し、アムステルダムからもハーグからも1時間以内で行ける場所にあります。ユトレヒトはその立地条件のために、全国から学生が集まる最も大きな大学を持っています。若い人が多い町です。それもあってか、研究所や非政府組織などの本部が集中しています。

 このように、オランダの都市は、フランスのパリのように一極集中型ではなく、全国の道路地図を見ても、道路が集中した場所はなく、全国に網の目のように張り巡らされているという感じです。

 実を言うと、この道路づくりに関する両国の違いは、両国の人々の社会意識の違いにも大変よく連動しているように思います。

 カトリック教国のフランスは、カトリック教会型、と言いますか、社会が何事もピラミッド型でできている。学校制度を始め、様々の社会制度が、大変中央集権的であることが、ヨーロッパの中でも特に目立っているといえます。それに対して、道路がネットワークのようにまんべんなく広がっているオランダは、人々のメンタリティもフラット。何か、社会に山や谷のような凹凸がないというか、平等感がやけに強い国です。カトリック教徒もいるがプロテスタントの信徒もいる、また宗教を抜け出た自由主義者、ヒューマニズムの伝統も強い。それらが、マイノリティとして、お互いに、上下の関係を作らずに、平等にお互いを認め合っているのがオランダなのです。

 フランスの中央集権的な政治や制度は日本に似ていなくもないな、と思います。
 けれども、そうかといって、フランス人も日本人のように従順でおとなしいのかというとそんなことはない。この国は、さすがに、フランス革命を起こした国だけあって、市民意識は大変高い国。人々の社会参加意識、議論の文化は、さすがに、ヨーロッパの先進国、という感じがします。

 それはともかく、国土の規模が大きくなると、このように中央集権で統治する以外にないのかな、と気づいたのは、オランダが比較の相手であったからです。フラットとはいえ、オランダはやはり規模が小さな国。実際、どんなに宗教や倫理感が違っているといっても、オランダの人たちのものの考え方は、フランスや日本のように大きな国の中の多様性ほどに大きな違いはありません。
 しかし、フランスはといえば、かつては、言語も二分されていた国。地方ごとに特産物が異なるし、独特の地方文化を持っています。中央集権性の国といえば、一見「画一的」に見えるけれども、実は著しいほどに大きな多様性を内に含んでいて、それがために、中央でしっかりみかじめをつけていなければならなかったのだな、と気付かされたのは、こういうフランスとオランダの違い、そこに見られるパラドックスに気付いたからです。 日本もまた、全国津々浦々、地方文化が豊かな国です。違いがあるからこそ、「まとめる」とか「統合する」といった意識が生まれ、中央集権が求められるのかもしれません。

 などと考えていると、おっとそれでは、もっと大きなドイツはどうなる??
 ドイツは州ごとの地方分権性が伝統的に大変強い国です。

 それはさておき、オランダ(人)とフランス(人)の違いは、まだまだいろいろとあります。それについては、また、これから折々。

理想の民主社会を目指して:「ヨーロッパ連合」という大実験

 オランダやヨーロッパの現代史をテーマにしたノンフィクションをいくつも手掛けているへールト・マック(Geert Mak)という売れっ子の作家がいます。彼が、昨年出た「宮殿ヨーロッパ」(Paleis Europa)」という書の序文の中で、次のように言っています。(ちなみに、この書は、1950年以来ずっと続いてきたヨーロッパ拡大の動きに対して、この数年、オランダ人も含め、ヨーロッパの一般市民の感情が否定的・内向きになっているということに対する問題意識のもとに、オランダ女王の名で個人的に招待された6人の著名なヨーロッパ学・ヨーロッパ政治の第1人者たちが行った講演を記録したものです)
「ヨーロッパの統一は民主化と人権保護推進の分野での未知の運動である。ヨーロッパ連合の拡大は成功に満ちた「ソフト・パワー」をしめす模範的な例である。こんなにもわずかな手段で、民主制度、繁栄、そして、安定を、これほど広範にわたるヨーロッパの地域でこんなにも強力に推進した例はまだほかにない。ローマ協定をきっかけにして、19世紀の初めのナポレオン体制以来、もっとも重要なヨーロッパの近代化プロセスが始まった。数十年にわたる期間、西ヨーロッパの大半の地域に影響を与えた、相互調和的な資本主義の政治は、これまでにないほどの存在価値を示している。世界中どこを探してみても、平均的な市民が、こんなにも多くの施設設備にアクセスできるだけの高い収入を得、しかも、こんなにも多くの余暇を持っているところはない。」(中略)

「わたしたちがもう一つ忘れてはならないのは、このヨーロッパ・プロジェクトが、戦場、爆撃、飢餓、強制収容所、経済恐慌などといった、20世紀のもっとも重苦しい瞬間を生き延びた、一握りのヨーロッパの外交官や政治家たちの、深く、また、共有された熱狂的な願望から生まれたものだったということだ。だからこそ、この人たちの熱狂は、自分自身の私欲や狭隘な国家主義を乗り超えて立ち上ってくるものだったのだ。『わたしたちがやったのはまったく新しい試みだった』『それは、冷徹な2国間取引というような、私たちがそれまでにすでに慣れきっていたような交渉とは全く性質を異にする雰囲気のものだった。それは、そういう取引とは全くレベルの異なるもので、本音と建前の二枚舌を使い分けるようなものでもなく、胸中に切り札を隠し持って応じるようなものでもなく、安易な妥協でもない、真実の解決を求めたものだった。史上初めて、私たちは、本気で、すべての人のための、また、ヨーロッパ全体のために最善のものをつくるために力を尽くしたという気持ちを抱くことができた。』と彼らは言う」

 ヨーロッパを外から眺め、ヨーロッパ連合といえば、やれユーロだ、自由市場だ、基は「ヨーロッパ経済共同体」だった、という風にみている日本人にとって、ヨーロッパ統一の運動が、20世紀前半にヨーロッパに蔓延した大衆政治や独裁によってもたらされた、目を覆いたくなるような悲惨で残忍な対立と戦争の歴史への、深い悲しみと憤りから来たものだ、ということはあまり意識されていないのではないでしょうか。少なくとも、私自身は、そういうことを最近まで意識してきませんでした。
 しかし、ヨーロッパの統一は、元をたどれば、例えばヴィクトル・ユーゴの「ヨーロッパ連邦合衆国」の理想に発するような、統一しがたいものの間に何らかの協調をもたらさなければ、やがては、対立と戦争で、自滅するという、ヨーロッパのエリートたちの切実な思いから生まれたものだったのです。
 そして、経済市場の開放は、それを支えるために、互いの信頼を打ち立て、ともに、力によってではなく、フェアな取引によって強調的に共同使用という、平和のための基礎作りに他ならなかったといえます。
 
 戦争が終わり、都市が灰塵と化した西ヨーロッパの諸々の国が復興に追われていた時代、武器生産に不可欠だった石炭と鉄鋼の市場を、戦勝国も敗戦国も共に分かち合うことに決めた「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」は、ヨーロッパ連合の発端を成すものとして、象徴的です。この時に発起国となった6カ国は、ベネルクス三国と呼ばれる元ネーデルランド諸国オランダ・ベルギー・ルクセンブルグと、西ドイツ、フランス、イタリアという、西側を代表するヨーロッパの大国でした。
 その後、1973年には、デンマークとアイルランドとイギリスが、1981年には、ギリシャが、1986年には、スペイン、ポルトガルが、そして、1995年には、オーストリア、フィンランド、スェーデンが加わって15カ国となり、その後、冷戦体制の崩壊以後旧ソビエトから独立して進行国となった国や東欧諸国がヨーロッパ連合への参加交渉をはじめ、2004年には、ついに、チェコ共和国、ハンガリー、ポーランド、スロヴァキア、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、スロヴェニア、キプロス、マルタの10カ国が参加、さらに、2007年には、ブルガリア、ルーマニアが参加して、27カ国が参加する大所帯となっています。
 
 ヨーロッパ連合の公式サイトにで、その成り立ち、規約・趣旨をはじめ、歴史的な背景、各国の事情、さまざまの統計など、ありとあらゆる情報を、参加国すべての公用語で公開しており、また、これからヨーロッパの市民として成長していく若い世代のための、わかりやすい解説も用意しています。
 なかでも、繰り返し強調されるのは、ヨーロッパが目指しているのは、統一による画一化ではなく、多様性を維持することの大切さだ、という点です。

「ヨーロッパのポスト産業社会はますます複雑の度を高めている。生活水準は着実に高まってきた、しかし、持てる者と持たざる者との間の差は今も大きい。ヨーロッパの拡大は、ヨーロッパ連合の平均以下の生活水準の国々が参画することによって、この格差をますます広げることになった。ヨーロッパ連合諸国がこの格差を縮小させるために共に働くことが重要だ。
 しかし、そのためのさまざまの努力は連合に参加する国々の異なる文化的、または、言語的な相違の安易な妥協によって果たされているのではない。むしろそれとは全く反対に、多くのヨーロッパ連合の活動は、地域ごとの特性を生かした、また、伝統や文化の豊かな多様性を生かした、新しい経済成長を助けるものである。
 半世紀にわたるヨーロッパの統合は、ヨーロッパ連合が全体として、その一つ一つの部分を単に足し算出たしたものよりも大きなものであることを示している。ヨーロッパ連合は、そのメンバー国がそれぞれ独立に行為するよりもはるかに大きな、経済的、社会的、テクノロジー上の、また、商業上の、さらに政治的なインパクトを持っている。共に行為すること、ヨーロッパ連合として一つにまとまった声を上げることに、付加された価値があるのだ」
 
 このように、多様性は、ヨーロッパ連合にとって重要なキー概念であり、ヨーロッパ民主社会の理想を体現するシンボリックで重要な要素なのです。

 ですが、その多様性、文化差こそが、かつてこの地域を悲惨な対立と戦場にしてきた、、、、

 よく、ヨーロッパ連合の理想はエリートの作り上げたものだ、ということがいわれます。確かにそうかもしれません。しかし、理想のない社会は、やがて、大衆という「顔」の内群れの力で、感情の対立の場に化していきます。もしも、社会の中でエリートの役割があるのだとすれば、人間の尊厳を飽くことなく求め、理想社会のために、誇りを持って生きることを人々に思い出させることでしょう。 ヨーロッパ連合の実験は、アメリカのように、金と権力で動く社会に比べてみても、実に誇り高い理想のもとに進められている、とても難しい実験である、と思います。

ブリュッセル:ヨーロッパ連合のパラドックス

 ブリュッセルといえばヨーロッパの中心地、日本の新聞社などもほとんどがブリュッセル支局を持っているのではないでしょうか。それというのも、ブリュッセルは、ヨーロッパ連合の議会場を抱えているからです。連合関係者だけではなく、ヨーロッパ各国のさまざまの企業や市民団体、国の出先機関なども、ヨーロッパ連合関係者との交渉のためにブリュッセルに支所を持っています。ヨーロッパのさまざまの意味でのエリート、リーダーたちが絶えず集まってくるブリュッセルは、ですから、ベルギーの首都、ベルギー王家の大きなお城がある街、小便小僧(マネケ・ピス)のいる街というだけでなく、ちょっと気取った、少々値の張るおしゃれな店やレストランが並ぶ高級エリート好みの街でもあります。

 それにしても、なぜ、ブリュッセルがヨーロッパ連合の首都の役割を果たすことになったのでしょうか。
 もともと、ヨーロッパ連合の母体になったのは、1951年につくられた「欧州石炭鉄鋼共同体(European Coal and Steel Community, ECSC)」という団体でした。この組織は、第2次世界大戦後、戦勝国と敗戦国との間で、平等な関係で共有の機関をつくって協力することによって、平和を保障しようという願いのもとに、ベルギー、西ドイツ、フランス、イタリア、ルクセンブルグ、オランダの6カ国の間の協定によってつくられたものです。
 当時は、エネルギー源として、石油よりも石炭にかなり依存していた時代です。
 ベルギーには、リエージュなど、ワロン地域(フランス語圏)と呼ばれる当方の地域で石炭の生産が多く、また、6カ国のうち、オランダやルクセンブルグと並んで小国であったことが、こういう国際協力組織においては、かえって中心となり、調停的な立場に立つことを期待されていたのではないか、と思います。
 この「欧州石炭鉄鋼共同体」の当初のメンバーだった6カ国は、6年後の1957年、石炭に限らず、より広い物資やサービスの市場開放に向けて、「欧州経済共同体(EEC)」を打ち立てています。
 さて、ベルギーは、オランダ語を話す人たちが住むフランダース地方と、フランス語を話す人たちが住むワロン地方との2つの言語地域に分かれています。「欧州石炭鉄鋼共同体」や「欧州経済共同体」ができたころには、こういう、2言語地域共存が、かえって、未来のヨーロッパを映し出すような、多様性の共存を象徴するというような期待や意味合いも、ひょっとしたらあったかもしれません。
 けれども、現実には、その後のベルギーは、この二つの言語地域の存在によって、連帯や統合よりも、むしろ分極の傾向を強めてきたという、いささかパラドックスに満ちた経過をたどっています。 
 もともと、ベルギーは国土がオランダ(ネーデルランド)の一部であったこともあり、オランダからすると「弟分」のような感覚の国です。多分、フランスからみると、フランス語圏を持ち、フランス語とは少し違ったベルギーなまりのフランス語を話すベルギーは、やはり、親せきのような感じではないか、と思います。それなのに、ベルギーの中では、フランダース地方にいるオランダ語を話す人たちとワロン地方にいるフランス語と話す人たちとの間は、まるで犬猿の中。お互いがお互いを毛嫌いする、対立的な雰囲気があるのです。
 たぶん、ヨーロッパに関心のある方は、昨年、総選挙後のベルギーで、いつまでたっても連合交渉が成立せず、政権が樹立できずに、ほぼ無政府状態にあったのを覚えておられるのではないか、と思います。
 
 もともと、ベルギーは、昔から、西ヨーロッパの繁栄の中心地でした。特に、アントワープの港を中心にした商業、その周辺地域での織物業、さらに、ワロン(フランス語)地域にあるアルデンヌ高地は石炭工業や鉄鋼業で栄えていました。
 ところが、その繁栄は、石炭業の衰退によって暗転し、それがもとで、国内の産業構造が変わり、国の統合にも大きな影響が及ぶのです。昨年2007年の総選挙後、この国の政権交渉が手こずり無政府状態に近い状態が長く続いた遠因も、ここにあります。

 ベルギーを二つに分けているフラマン系の地域とワロン系の地域とは、昔から人々の交渉が少なく、産業も、前者が商業・織物業、後者が石炭採掘と鉄鋼業に特化されていた傾向があり、利害関係に共通性が少なかった地域でした。以前は、どちらかというとワロン系の地域の方が栄えていて、しかも、フランス語は「リンガ・フランカ」といわれるヨーロッパの共通語、また、ドイツから迎えられたレオポルド王を中心に王族・貴族もワロン系の地域に住んでいました。つまり、繁栄の地であると同時に、社会的にも上流の人々が住んでいたのです。
 ところが、石炭業の廃止と共にワロン地域は没落。逆に、以前は、どちらかというとワロン系の人々が見下していたフラマン系の地域の方が、商業やサービス業で栄えていくのです。けれども、フラマン系の人々は、ワロン系のスノビズムが大嫌い。そんなこともあってか、産業でも両者の交流は断たれているらしいのです。

 そういえばふと思い出すのですが、かつて、私がボリビアに住んでいたころ、二人のベルギー人の女性と知り合いになりました。せっかくだからと二人を合わせようと家に招いたところ、自己紹介の時から、二人とも、何語で話をしようか、と躊躇しているのです。「結局共通語で英語で行きましょう」ということになったのですが、それは、そこに私がいたからではありません。二人とも、学校では、フラマン語(オランダ語)とフランス語の両方を習っているのに、どちらも、相手に譲る気がなかった、相手の母語に合わせる気がなかったからなのです。

 そんな風ですから、ベルギーでは、政党も、自由主義系、社会主義系、キリスト教保守系などとあるにもかかわらず、それらがことごとく、フラマン系とワロン系に分かれています。政治的立場よりも、言語圏に対するアイデンティティや利害意識の方が強いのです。

 結局、ベルギーの政治が落ち着かない最大の原因は、かつて栄光を享受していたワロン系の地域に圧倒的に高い失業者がいるというのに、反映しているフラマン系の地域の企業はワロン系に労働機会を提供しようとしないからだといわれています。
 フランス語圏のことはよく知りませんが、オランダ語圏では、時折、オランダに帰ろうじゃあないか、というような話が時々出てきているようです。少なくとも、フランス語圏のベルギー人と一緒に何かをやるより、オランダと一緒に国際交流やビジネスをやりたい、というような雰囲気はあります。
 それじゃあ、オランダは、このベルギーのオランダ語圏を「併合する」ほどの気があるのか、というと、そういう話はあまり本気で聞いたことはありません。

 文化の違い、言葉の違いを乗り越えて、ヨーロッパの平和と協調を追求するという理想は素晴らしいものです。ですが、そういうタテマエの後ろに、実は、失業などの食う、食わずの事態が起きると、「協調」などというきれいごとは、とても言ってはいられない、という状況が現実のものになってしまう。ヨーロッパ連合の首都ブリュッセルを抱えるベルギーは、自ら、「連合すること」の難しさを如実に体現している国でもあります。

多様性と寛容:ヨーロッパのキーワード

 オランダ語を公用語にしている国が、ヨーロッパにはオランダのほかにもう一つあります。ベルギーのフランダース地方のことで、ベルギーでフランダース語と呼ばれているのは、実はオランダ語にほかなりません。(ベルギーはこのほかワロン地方と言ってフランス語圏がありますが、それについてはまた別の折に、、、)

 実際、言語が同じだと、いろいろな点で2国間の協力・共同体制をつくる場面が多いようです。外国人向けのオランダ語(フランダース語)研修や大学間交流・大学の第三者評価制度などはその典型です。 
 とは言うものの、「言葉が同じなら文化も同じようなものなのだろう」と考えるのは早合点というもの。この二つのオランダ語圏では、実は、人々のものの考え方や行動様式、習慣、つまりはメンタリティがかなり違うからです。

 もともと、オランダやベルギー、ルクセンブルグという国々は、その昔、16世紀にスペイン王家が覇権を握っていた時代には、「ネーデルランデン(低地諸国)」としてくくられていた地方でした。その後、スペイン王家の強権に抵抗してネーデルランド共和国が設立されたり、ネーデルランド共和国の独立のための戦争がおこったり、フランス革命ののちにナポレオンがやってきてこの地方を支配したり、ナポレオンの没落後に国家主義の時代が到来したり、などなどとヨーロッパの中心にあるこの地方では様々の紆余曲折がありました。そういう時代を経て、ネーデルランドは結局どうなったかというと、19世紀の半ば、ベルギーはネーデルランド王国から独立します。ルクセンブルグも別に王国として立国しています。

 オランダが、カトリックの中央集権的な強権を基盤としたスペイン王家の支配を嫌って独立戦争を起こした時に、オランダの人々がその精神基盤としたのがプロテスタントの信仰であったのに対して、カトリック信徒が多かったベルギーの地域の人たちは、オランダの一部であり続けること、特に、プロテスタントの信徒であった王室を擁したオランダ王国の一部であることを拒否したからです。

 で、こういう2国間の違いが、具体的に一体どういうところに見られるのか、といいますと、、、
 たとえば、上に述べたような、言語が一緒だから、大学交流ができるからと、両国間のいろいろな共同事業をやっている組織が、両国の専門家を集めて会合を持ったとします。当然、国境を越えて集まってきたのですから、会合の合間にはちょっと気取ってみんなで一緒にランチでもということになりますね。何といっても国際交流ですから。

 こういう時に、オランダでならば、オーガナイザーは、ちょっと気の利いたベイカリーか何かに特製のサンドイッチを注文して出前させます。オランダ人が普段職場で食べるランチというのは、朝食のついでに黒パンにチーズかハムをちょいとはさんで「ボーテルハムザッキェ(サンドイッチバッグ)」と呼ばれる15センチと20センチ四方の、薄くて今にも破れそうなプラスチックの袋に詰めてきたものと、リンゴ、オレンジないしはバナナを一個という感じですから、このベイカリーが作ってくれる、ハムやチーズのほかにサラダまで挟み込まれたサンドイッチは、オランダ人にしてみれば「豪勢な」ランチにほかなりません。何せ、このほかに、サワーミルクや牛乳までグラスに入って供されるのですから、、、、

 ところが、他方、ベルギーで会合が行われたらどういうことになるか、、、、
 カトリックのベルギー人は、質実剛健・禁欲を旨とするオランダ人とは異なり、人をもてなす時にはふんだんに料理を出すのが礼儀と心得ています。そこで、ベルギーのランチは、オランダ人にしてみれば「これがランチ?」と目を丸くするような、肉あり魚あり温野菜ありの、名実ともに豪華な立食パーティないしはテーブルでの食事となるのです。もちろん、食事にぴったり合った味わいのワインも忘れません。
 オランダ国内にも、実は、ライン川の南側とか、東部の一部の地域にはカトリック教徒が多数を占める地域があり、プロテスタントの質実剛健とは風情を異にする、どちらかというと大判振る舞いの文化や習慣があります。
 というようなわけで、プロテスタントとカトリックの背景は、このライン川あたりを境として、人々のメンタリティにかなりの影響力を与えています。

 ベルギーのワロン地方から以南、フランス、スペイン、ポルトガル、そして、地中海をはさんで東側のイタリアなどは、いわゆる「西ヨーロッパ」といわれる地域の中でもカトリックが圧倒的に多数を占める国々です。時に「南欧」とくくられたりもします。
 ご存じのように、カトリック教会というのは、ローマ法王の権威がとても大きく、その影響なのか、これら南欧の国々では、おおざっぱではありますが、社会制度においても中央集権的な支配体制に慣れているという感じがします。とは言いながら一国一国を詳細にみてみると、なかなか独自性が強い。
 スペインやポルトガルは70年代まで独裁体制が続いていました。それに対して、フランスは、中央集権の強い国ではありますが、18世紀に市民革命を起こして王制を倒し市民社会を実現したという誇りを持っており、市民意識はそれなりに尊重されている。イタリアはイタリアで、洗練された文化は、フランスなどよりも、ルネッサンスを興した自分の国の方だと思っているし、その割には、ミラノなどの北部に比べてナポリやコルシカなどの南の地方は貧困の度合いが強いし、子だくさんの肝っ玉母さんの国、マフィアの国、というイメージもある、、、

 プロテスタントとカトリックが共存しているという点ではドイツもオランダと同じですが、小国オランダに比べると、ドイツは独立性の高い州(ラント)が集まった連邦国でもあり、オランダのように平準性・画一性が高い国とは異なり、州によってメンタリティも制度も相当に差があります。ドイツの場合、それに加えて、かつてヒトラーのナチスを生んだこと、東西ドイツに分裂していたことなどが、他の西ヨーロッパ諸国にはない傷となり悩みにもなっている(これもまた別の機会に詳説します)、、、

 外国語といえばまずは「英語」しか頭に浮かばない日本人にとって、ヨーロッパの入り口はイギリスになるのが常ですが、イギリス人たちというのは、実を言うと、いまだに「自分たちはヨーロッパ人ではない」と思っている人もいるくらい、大陸ヨーロッパへのアイデンティティに心の底で抵抗を持っている人たちなのです。ロンドン塔などを訪れるとすぐにわかりますが、島国イギリスにとっては長い間海原の向こうは敵国という意識があったのでしょう、技術革新の基本は武器の発達だったのだな、ということをつくづく感じます。その勢いで、19世紀には世界に植民地を抱えた大英帝国だったのですから、「ケチな」ヨーロッパに与するものか、と思っている。ヨーロッパ共同体に参加するのも長い間躊躇していたし、ユーロ導入にも参加せずに今でもポンドを握りしめています。社会階層意識が強いことでは多分ヨーロッパの中でもダントツではないでしょうか。
 ブッシュ大統領が無謀にイラク攻撃を始めた時でさえ、「アングロサクソン」の連帯とかなんとか理由をつけて、なんと、労働党のブレア首相がブッシュを支持していたくらいです。


 ヨーロッパは、そういうわけで、そうそう簡単に十羽ひとからげにはできない地域です。というより、この一国一国の違い、多様性を内に含んだ地域それ自体が、一つのダイナミックで興味深い動きを内蔵したさまざまの可能性を秘めた地域であるとも言えます。可能性は、当然望ましいことも考えられますが、その後ろには分裂というリスクも含んでいる。この緊張が、北米やアジアの先進諸国地域とは異なるヨーロッパの目立った特徴、独自性であると思います。

 北に行けば、福祉国家で有名な北欧諸国がある。冷戦体制の崩壊とともに、北部や東部には、かつてソビエト連邦の域内にあった信仰のスラブ地域もあります。また、東欧圏と言われた国々も、次々とヨーロッパ連合に加盟しています。

 分裂や、ひょっとすると武装対立にもなりかねない「多様性の共存」という課題を抱えながら、ヨーロッパの国々は、互いの「寛容」をどう組み立てていこうかと悩みながら、それでもリーダーたちがなんとか連携を図ろうと努力しています。この緊張感がなかなか興味深いのです。そして、それは、アメリカ合衆国の強権を強く意識したものであることは否めません。アメリカ合衆国の社会づくりとは異なる論理で、多様性を生かし、なおかつ平和を維持しようという努力が、ヨーロッパの連合体制にほかなりません。