2011年10月4日火曜日

フランスの片田舎にて

 フランスの中央山地のモン・ドールを源とし、ワインでお馴染みの、北海に面した港町ボルドーの方向に向かって蛇行しながら、ほぼ東から西に向かって流れるドルドーニュ川中流にある村。この半世紀ほどの間に、人口が3分の1くらいに減ってしまい、現在では、人口わずか230人という過疎の村だ。
 イギリス人の棟梁の下で、ポルトガル人の石工らが3人、地区160年余りの石造りの農家を改築している。家主は、オランダ人の夫と日本人の私。棟梁、石工、私たちの共通語は、もちろん現地のフランス語だが、フランス人は一人もいない。
 3人の石工は、50代の親方と彼の二人の甥、少し経験のある年嵩の甥とまだ20歳になったのだろうかと思える若い見習い工だ。ヨーロッパの建物はその土地でとれる石を積み上げて作られるのが基本だ。石工という仕事は、ここに人が住み始めて以来の古い職人業であると思われる。そして、今も、親方、職人、見習工という3段階の共同作業で、石を切り、石を積み重ねて仕事をしている。

 夫の仕事の都合で開発途上国を周り暮らしていた17年前、この村の古い農家を買いとった。当時は休暇をヨーロッパで過ごすため、、、、そして、今は、夫の退職後、自然に囲まれてゆっくり生活するためだ。

 この村があるあたりは、平地が少なく、山間の谷やなだらかな山腹を利用して、イチゴやプラム、アプリコット、メロンなどの果実、クルミ、牛の放牧など、ポリ・カルチュアの農業を伝統としてきた土地だ。狭い平地は、集約的な農業ができず、全盛期には、多くの農民が都市での仕事を求めて村を出ていった。継ぎ手のない農家も多く、そのうち、イギリスやオランダ、ドイツなど北国の人々の保養地として、村には、地元の農家と、休暇用に買い取られた家とが混在するようになった。

 1970年代の初めまで、独裁体制が続いたポルトガルからも、移民や出稼ぎ労働者がよく入ってきた。今、この辺りで石工をしている親方、その弟子たちは、ポルトガル系の移民がほとんどだ。

 欧州連合の国境がないも同然となり、通貨がユーロとなり、携帯電話一本でどの国とも交信できる。今日も、見習工のポケットに突っ込まれた携帯電話が鳴り、ポルトガルにいる母親から「元気かーい。病気しないように気をつけるんだよ。おじさんの言うこと、よく聞いてね」と大きな声で電話が入っていた。

 村長さんは、ドルドーニュ川の川沿いの小さなお城の城主夫人だ。

 村では、ほとんど毎月のように祭りや催しがある。つい先日も、村の古い教会で、フルートとアコーデオンのコンサートがあった。かつて村に生まれボルドーなどの都市に出ていった人も、退職後には、実家に戻ってくる。私たちだけではなく、ベルギー人、オランダ人、イギリス人などの家もあり、祭りや催しにも出かけてくる。

 我が家の裏に胡桃縁を持つ農家の後づぎ息子は、フランス人の女性と結婚していたが離婚、その後、イチゴの収穫のために出稼ぎ労働者としてやってきていたセネガル人と結婚した。

 インターネットがとおっているので、ポルトガルであれ、セネガルであれ、家族との交信に難はない。サテライトを取り付ければ、世界中のテレビを視聴できる。とりわけ、ヨーロッパ域内の国々の放送は、自国にいるのと同じくらい十分な数のチャンネルだ。

 逆に、これだけのチャンネルがあれば、どの国の国内ニュースにもアクセスできるし、政治討論会や選挙の様子、連続シリーズのドキュメントやドラマも視聴できる。

 フランスの、こんな山深い過疎の田舎ですらも、今やこんなに国際化が進んでいる。