2015年1月8日木曜日

シャルリー・エブド襲撃事件の衝撃

 風刺画で有名なフランスの新聞社シャルリー・エブドで、昨日、白昼堂々とイスラム教過激派による銃撃事件が起き、編集長や有名な風刺画作家、また、警察官を含む12人が銃殺された。
 このニュースは、プライムタイムのニュースの冒頭で伝えられたが、ヨーロッパ全土を震撼させている。次はどこが狙われるのか、と各国共々厳戒態勢に入ったと思われる。
 犯人は3人、一人は自首したが、後の二人の容疑者はまだ逃走中。欧州連合で国境が閉じられていないため、どこで次の事件が起きるかわからない。
 犯人と思われる3人は、いずれも、フランス生まれのフランス育ちのイスラム教徒であるという。かつて2004年に、オランダの映画監督を暗殺した犯人もオランダ生まれのイスラム教徒だった。当時、オランダの教育界では、「なぜオランダの学校で育ったにもかかわらずこのようなことが起きたのか」と大議論となった。以後、「表現の自由」「他者の尊重」を教えるシチズンシップ教育がすべての初等・中等学校に義務化された。
 こうした事情は、イスラム教系移民の多いデンマーク、ドイツ、フランス、イギリスなどでもほぼ同じだと思われる。単に、学科教育だけを学ぶのではなく、社会性や共同の力、情緒のコントロールを学ばせる授業や哲学の授業などがいぜんに比べてずっと増えてきている。オランダでは学校に限らず、外国人移民に対する手厚い社会保障もしてきた。もしも最近の移民達の生活が苦しくなっているのだとしたら、それは、経済不況を背景にしてのことで、苦しいのは移民たちだけとは限らない。オランダの若者の多くが安定した職業を得られずに苦闘している。こうして「平等を保障してきたはずなのになぜ」という思いは、為政者の中にもきっとあるはずだ。それが、フランスやドイツやデンマークやオランダなどで「移民排他」の極右派政治家の現出の背景にある。そして、伝統的な政治からは、リベラリズムの側もソーシャリズムの側も、社会を不安定にさせる極右派の勢力の増大を恐れている。極右派の増大は、ヨーロッパの安寧の基礎である欧州連合崩壊の一因となる可能性が大きいからだ。
 今回の襲撃事件のような、イスラム教移民家庭を背景にした犯人たちによるテロ行為は、結果として極右派への支持を増大させることになるだろう。そして、結果としてヨーロッパの安定を根底から振り動かすこととなるだろう。

 襲撃事件の直後から、パリ市内、そしてリヨン市内でも一般市民が集まって、テロに対する抗議の声を上げた。「私はシャルリー」という標語を手に人々は集まった。「私は、暴力でではなく、言葉で戦う」という意味だ。
 かつてフランス革命によって市民社会を実現させたフランスには、「自由」への強い思いがある。その「自由」とは、放埓で気ままな「自由」ではない。フランス国旗の3色が象徴しているのは、自由と平等と博愛、オランダ国旗も同じ3色だ。「博愛」は「同胞との団結」と言っても良い。「寛容」よりもさらに一歩進んで、深く、自分と価値観の異なる他者を受け入れる意欲のことだ。自由は、その博愛の精神と組み合わせられていない限り決して保証されるものではない。その意味で、テロ行為は、言葉だけではなく、生命を奪い取ることで、他者の存在を100%拒否する行為であり、彼らの行為は、今後、決して、人々が自由を享受できる幸福な社会へと繋がるものではない。

 銃撃の犠牲になった風刺画からの写真がテレビに映し出される。どの顔も、人間味に満ちた温かい表情だ。この人たちは、自らの身を賭して人助けのボランティアをしていたわけではないかもしれない。けれども、ユーモアを使って、対立する人々が歩み寄れること、誰にでも、笑いを通して自らを見直す人間性があることを信じていたヒューマニストたちだったと思う。

 なぜ、ヒューマニズムがこれらのテロリストたちの犠牲になるのだろう?

 もしも、テロリストたちが、グローバル化する企業文化の中で、機会を与えられずに苦境に陥っている人々の声を代表しているつもりなら、元来、風刺画たちがしてきた体制批判に対しては、共に手を取り合うべきではないか。

 良心的なイスラム教徒たちの居場所が少なくなってきている。しかし、彼らに、「なぜもっと声を上げないのか」と言いたい。「なぜ、私たちと一緒により良い人類社会のために寄与しようとしないのか、、、なぜ、お互い恨み合い傷つけ合うという行為を容認するのか」と。