皮切りは、私の自宅から徒歩数分のところで開かれた、アフガニスタン和平閣僚会議だ。ヒラリー・クリントンの提唱からわずか2週間半で、オランダは、この会議のホスト国として、会場を用意した。会議の目的は、アフガニスタンの和平を世界中の国家が協力して推進すること。その中で、これまで、一方的に西側が敵視してきたタリバンの穏健派との対話や、また、何よりも、イランからの代表者が、アメリカの招きでこの会議に参加したことで、氷結していたアメリカとイランの間の関係に氷塊が見られたことが、特に注目に値する。
その翌々日、今度は、ロンドンで、経済危機対策を話し合うためのG20会議が開かれた。基調は「保護主義」の抑制による、国際協調にもとづく回復策への努力ということだった。しかし、これを呼び掛けたのが、アメリカのオバマ大統領であったことが目立つ。これまで多元主義、協調を基調路線に外交を進め地域を拡大してきていたのはヨーロッパ連合のほうだ。しかし、このヨーロッパ連合の最初のメンバーの一つであるフランスでは、このところ、サルコジ大統領の保護主義的な動きが周囲から非難を受けている。
サルコジは、フランス国内の雇用創出のために、ルノー自動車など、元東欧諸国だった地域にあった工場の閉鎖を認めた。これについては、EU委員会からも非難を受けた。しかし、フランスは、失業率も地域内では低くない。移民問題も絶えない。また、特に、ポーランドなどの元東欧諸国が加入したのち、同じ農業国として、人件費がまだ安い東欧諸国を相手に、国内農業部門の競争力が落ちる一方、国の補助金がかかっている分、生産物の価格も下げられず、出口のない状態が続いている。
多元主義が、本来、各国の自律的な経済政策、また国内政治を認めるものであれば、こうした保護主義と、世界の自由市場開放との間には、原理的に緊張関係があるのは当然だ。その間の関係をどう処理していくべきなのか。EUの中に、旧メンバー国と新メンバー国との間の、目に見えない緊張がある。EUの理想の実現は、まだまだ手の届かないものなのかもしれない。金融危機は、EUの努力を後ずさりさせるものであるかもしれない。アメリカにしても、ヨーロッパ市場は確保しておきたいのにちがいない。欧米両者が、これから、どう折り合いをつけていくのかが興味深い。
G20に続いて、ストラスブルグで、今度は、北大西洋条約(NATO)会議が開かれた。
NATOは、日米安保条約と同じで、もともと、第2次世界大戦後、共産圏を仮想敵国とみなす冷戦状態の中で、西側欧米諸国の防衛のために作られたものだ。しかし、現在では、アフガニスタン再建など、平和維持としての役割を受け持つようになってきている。ロシアのNATO参画すらも議論されるほど、元の目的は形を変えてきている。
そんな中、オバマ大統領は、NATOの意義を根本的に変革し、「核抜きの世界をつくる」と呼びかけ、ヨーロッパは、トルコを一日も早くEUに加えるべきだ、との見解も明らかにした。
だが、同じ会議で、NATOの新議長には、トルコが反対しているにもかかわらず、デンマークのラスムセンが就任することをヨーロッパ諸国は決めた。
トルコの反対の理由は、かつて、イスラム教に対する風刺画事件で問題を起こしたデンマークに対して、イスラム教国からの反発が起きるとの警戒からだった。
これまた、EUの矛盾を感じさせる一幕だ。危機が訪れると人々は防衛的になる。
トルコ問題は、人々の意識の中に、キリスト教社会とイスラム教社会の対立があることを、再び思い起こさせる。イスラエル問題が未決のままであることが、今後も出口の見えないまま、EUと世界に波及し続けるような気がする。
EUの理想は、平和維持、多元主義の協調的民主主義を広げることにあったはずだ。
そして、昨年までのブッシュ率いる米国は、確かにこういう協調主義とは相いれない好戦的な大国主義のアメリカだった。
しかし、グロバリゼーションによる、無統制の市場主義が生んだ格差社会と、人間の尊厳を切り捨てる競争社会の結果、世界は、限りなく、分極化を続けた。そして、この分極化の過程で、ヨーロッパは、試されながらも、「協調」を旗印に、拡大を続けてきた。だが、それはまた、大西洋を越えた、大国アメリカを意識した、ヨーロッパという地域経済ブロックの強化でもあった。
アメリカが、オバマ大統領を生み、彼のリーダーシップに期待をかけ、ヨーロッパの十八番だった多元主義と協調による世界づくりへと動き出したとき、ヨーロッパは、むしろ、その弱さを顕わにし始めたように見える。オバマといえども、米国経済の回復は、最も大きな課題であり、その目的あっての協調姿勢だ。
しかし、対話が続いていく限り、また、一般市民の連帯感と議論への参加が続いていく限り、流れは自然淘汰的に、人々の意思を反映しないわけにはいかない。市民の、時事情報への関心と、議論への参加、それを反映するマスメィアの力が、今こそ問われている。
気になるのは、こういう動きに背を向けて、ただただ、北朝鮮のテポドン問題に終始する日本のマス・メディアだ。日本の政治家たちは、いったい英語で発信されている世界の時事情報に、どれだけ通じていてくれているのだろう。日本人は、欧米のこういう動きに、何らかの意見を持ち議論に参加していなくていいのだろうか。メディアは、そのための材料を十分に提供できているのだろうか。
オバマの政治は、単なる絵に描いた餅、「理想」にすぎないと、識者はいうかもしれない。実際の取引は、タテマエの理想の後ろにあるのだ、と。
だが、民主政治とは、たとえ、政治家の思惑が、「理想」の言質に隠されていたとしても、その「理想」をタテマエに終わらせないために作られた装置だ。オバマの言行を一致させるかどうかは、ヨーロッパをはじめ、世界の他の国々が、対話に加わり、彼の言行一致を追及していくかどうかにかかっている。それに、ヨーロッパもアメリカも、新聞紙上では、意識ある知識人らが、どれだけ偽善を排して、論理的な説得力を持てるかということで鎬を削っている。日本にそれだけの力のある政治的リーダー、また、マスメディアの責任者が、絶対数としてどれほどいるのだろう、と少し気になる。