2008年12月28日日曜日

こんなに違うオランダ(人)とフランス(人)(2)

 ファッションの最先端を行く店がずらりと並ぶシャンゼリゼ、ライトアップされるエッフェル塔、凱旋門周辺の高級住宅街などに象徴される近代的で先進的な都市パリは、かといって、必ずしもフランスという国の特徴を代表しているとは限りません。
 フランスのテレビを見ていると、時折、「あなたはパリジャン、それとも、プロヴァンスの人?」「パリとプロヴァンス、どっちが好き?」というような聞き方が普通にされるほど、フランスと言う国は、都市文化が一極に集中した首都パリと、それ以外の大半の人たちが暮らしているプロヴァンス(田舎)との差が極端に大きな国であると思います。

 そもそも、フランスは昔からヨーロッパ随一の農業国。ワインばかりではなく、穀物生産、生鮮野菜の生産が盛んな国です。パリを取り巻いている循環道路を抜けてその外に出ると、少しなだらかな起伏がある平坦な農地が広がり、早春には、トラクターが黒い肥沃な土壌の農地を耕し、初夏には一面の菜の花畑が広がり、盛夏には、草を刈り取って円筒型に丸めたものが点々と照りつける太陽の下に日干しにされています。国土の広いフランスには、農地と森林がそこそこに広がり、バリから車でものの30分も行けば、広い農地の向こうに、教会の尖塔とその周りに集まった村の集落のシルエットを遠望できます。

 石の文化のヨーロッパらしく、どこの農村の家も、その土地から切り出された石を積み上げて作った民家がほとんどで、赤土の土地の農村の家は赤い壁、カルストの広がる地域の家は白っぽいベージュの壁、ごつごつとした岩肌の土地の家は黒くて重い石のスレートで屋根が葺かれている、という風で、土地との密接なつながりが興味深く、また、家という建造物がその背景の自然の中に溶け込む美しさを見事に示しています。

 彼らの宗教は主としてカトリックのキリスト教ですが、現在のフランス人庶民にとって、宗教は決して観念的なものではなく、ちょうど、日本の仏教のように、生活に密着した、日常的な慣習の一部になっているという感じがします。高速道路を少し離れて、県道沿いの村などに行くと、道路の分かれ道ごとに十字架が立っていて、しばしば、その十字架にイエスの像がかかっています。村の教会は、12世紀ごろにたった古いものもありますが、一概に小さく、教会前の広場にはマリア像が立っています。
 オランダのプロテスタントの教会ではほとんどそういうことはありませんが、フランスのカトリック教会に行くと、日本の村の小さな寺に来たような錯覚にとらわれることがあります。分かれ道に立つ十字架も、日本の山道にあるお地蔵さんを思い出させます。

 フランスの村には、必ず村人たちの共同墓地があります。仕事で都会に出て行った人たちも、死んでしまえば、故郷の家族の墓地に埋葬され(今でもなくなった人のからだは火葬するのではなくそのまま埋葬するのが習慣です)、毎年、11月の初めのハロウィーンのころは、「すべての聖人が集まる日」と言って、フランス人にとっては、先祖のお墓参りの日なのです。その日には、都会にいる人たちも、故郷の実家に帰り、墓に参って花を供えます。

 全国いたるところが、網の目のような道路に覆われ、ほとんどの地方が都市化してしまったオランダでは、こういう光景はあまり見られません(オランダではカトリック以外の人は現在ほとんど火葬ですし、個人主義が進んでいるためか、墓も作らず納骨もせず、灰を火葬場の花畑に撒くだけ、という例もかなりたくさんあります)。たぶん、東部とライン川以南のカトリックの地域だけでしょう。
 もともと、アムステルダムを中心に商業を生業としていた都市市民がリーダーシップを作って作った国ですし、国の規模が小さいので、都市と田舎の格差というのも、オランダでは、フランスほどに大きくありません。

 このことは、学校教育についても両国の大きな違いを生んでいます。

 フランスは、パリはリヨン、ボルドーなどの大きな都市は例外として、全国のほとんどの地方では、先に言った村の教会の横に「メリー(Mairie)」とか「オテル・デ・ヴィル(hotel de ville)」と呼ばれる村役場があり、たいてい、これに隣接して、村立の小学校(エコール)があります。過疎化が進んだ農村では、地域の小学校が統廃合され、空き家になった学校も少なくありませんが、いずれにしても、それは、村の中で、村役場と並ぶ立派な建物です。今でも立っているこれらの小学校の校舎には、よく、「ギャルソン(男子)」と「フィーユ(女子)」と入り口の鴨居の上に刻まれていることがあり、「なるほどその昔は、フランスも、「男女席を同じうせず、だったのだな。いったいいつから男女共学になったのだろう」と思わせます。

 昔から、西ヨーロッパの国々の間でも、フランスの学校は、「規律が厳しい」ことで有名でした。学校というところは、しつけを学ぶところ、そして、真面目に読み書き算を学ぶところだったのです。村に一つずつですから、オランダのような「教育の自由」、つまり、親が自分の信念に従ってそれにあった学校を選ぶとか、親が集まってみんなで一緒に学校を建てる、というようなことは、ほとんどできなかった国です。ですから、教育の内容も国が一律に定め、中央集権的な管理が置かれていたことで有名です。

 明治維新以後の日本は、幸か不幸か、このフランスの小学校制度を模倣したといわれています。日本も都鄙間格差が大きな国ですから、ある意味では正しい選択であったのかもしれません。

 そういうわけで、こと、学校制度に関する限り、フランスでは、それぞれの学校の自由裁量権は、オランダに比べると著しく少なく制限されています。自由度の高いオランダでは、一定の質を維持するために、教育監督制度が発達しています。つまり、インスペクターという独立の機関が、国が定めた規則の中で、それぞれの学校や教員が、どれほど質の維持に意識的にかかわっているかを見定めていなくてはならないからです。そのため、オランダの教育制度には、ちょうど、モンテスキューが、民主主義の制度として、権力を3つに分散することを主張したように、教育行政の決定者である議会またその執行責任者である文部省と、実際に現場で教育に当たる教育者たちと受益者である子どもや親という二つの立場のほかに、第3の権力として、これを監督する教育監査局が大きな力を発揮しています。

 しかし、フランスの教育制度は、この第3の立場から監督する監査局の制度があまり発達していないことで知られています。中央集権的な制度なので、教育行政の執行者と監督の責任とが、密接に結びついているのです。

 フランスは、王や貴族の頽廃した権力を覆した、市民革命をおこした国として有名です。しかし、その一方で、こういう、中央集権制の強い国、という特徴も持っています。この二つの関係を理解するには、フランスとオランダでの、宗教が果たしてきた役割の違い、というものも大変密接にかかわっていると思います。

 それでも、フランスは、ヨーロッパを代表するほどに、人権意識の強い国でもあります。そこに垣間見えるパラドックスがとても興味深い国です。